マンガ存在論 〜受容からみるマンガの独自性〜


2010/1 (学生時代に書いたまま手直ししていません)

序章



 一般の本屋では必ずマンガを見かけ、コンビニでもマンガは扱われる。また、サラリーマンは電車でマンガを読み、人気漫画は実写化され映画化される。おそらく日本人であれば、誰でもマンガに一度は触れたことがあるだろう。現在、それほどまでに社会の中にマンガは浸透している。しかし、浸透していながらも、マンガは低俗であるという気分があるように感じる。自分の個人的な感覚であれば、マンガを好む人はオタクであるというようなイメージであり、また、大人が「マンガばかり読まずに、読書をしなさい」と言うようなイメージである。おそらく、これは私だけが感じる気分ではないだろう。本論文では、このようなマンガに対するネガティブな印象を「低俗である気分」と考えてこれから述べていきたい。

 さて、これを念頭に置き、マンガとは元々どのようなものでどのようにして現代のようになったのかを考えてみよう。マンガの成り立ちは諸説あるが、ここでは「マンガの国ニッポン」を支持して明治からの工業生産技術の向上による新聞や雑誌の成長によったポンチ絵の出現を近代的な日本のマンガの出発として、戦後に子供向けの「連続漫画」として発展することによって現代のマンガになったと考える。このころの漫画とは、大人が読むものではなく、子供という小さなコミュニティだけがそれを読むことを期待されていた。しかし、手塚治虫の登場と小さいころからマンガに慣れ親しんだ世代の成長によって対象は拡大され、現代のように大人から子供まで誰でも読めるようになったのである。この拡大する過程にて一つの言説が沸き起こった。「マンガは教育に悪い」というものである。これはまず、昭和30年代までの批判からわかる。それは、児童小説の作家である狩野省三の言うような、マンガは理解しやすいために子供が頭をつかわなくなるということ、そして、教育者である石田光が言うような、マンガにより誤った知識やモラルを与えられ現実を見ることができなくなることである[1]。これらの考え方によって、マンガを悪書とみなし、悪書追放運動が起こったのも昭和30年代であり1955年のことであった。

 なるほど、それが一つの低俗である気分の答えに成り得よう。その時代に言われたことがまるで伝言ゲームのごとく現代まで影響を与えているとも考えられるだろう。「実際、マンガは通俗で俗悪だから悪書とする」という感覚が、現在にも残る短絡なマンガ批判の原因ではないかとも言われている[2]。しかし、それが証明できたところで、その本質は低俗ではないとは言いきれない。それは、私たちがその社会的背景からの低俗という気分をできる限り排除して、マンガと文学を比べたところで、まだマンガの方が低俗であるように思われることからも言えよう。もちろん私自身がその低俗であるという気分の中でこれを考えているためにその影響から、ただそう勘違いしている可能性も捨てきれない。しかし、それでも低俗であるというように感じると言うことはどういうことか。低俗であるか低俗でないか、マンガの本質に迫るためにはマンガの構造自体に言及しなければならないと私は考える。つまり、マンガの本質に低俗なるものがあるのであれば、その低俗という気分の所以が属するところはマンガそれ自体の構造でなければいけないと考えるのである。

 また、ここでマンガの本質、マンガ存在それ自体を考えるときに、必要なのはマンガの独自性とは何であるかということである。例えば、文学との違いであり、その他芸術との違いである。それは、それらが一般的に低俗であるという言葉から遠いところにあるため言えよう。ここから、マンガの低俗性を考えるためにはマンガの独自性を浮き彫りにすることが必要であるとわかる。しかし、もちろんマンガの独自性がイコール、マンガの低俗性とは言えない。低俗と言うものが社会的な「気分」という、あやふやなものによる以上それ自体をつかむことは不可能であるために、低俗である所以を一つの評価軸をもって仮に決定し推測する必要がある。つまり、本論文では低俗であるかを考えると言うことを一つの目的とは置くが、論文内でそれの答えを得ることは不可能であり、推測することしかできない。それでは、私はこの論文で何を明らかにするべきなのか。それは、前述のような独自性である。独自性を考えることによって、少なくともマンガの構成内にそれを低俗とせしめている可能性のある要素を求めることが可能であると考えるからである。私は、マンガの独自性をマンガ存在とし、本論文で考えていきたい。

 さて、マンガ存在を考える場合、その切り口は多種多様にあろう。例えば、テーマやジャンルの中から、または作者と作品の関係から、そして読者と作品の受容からである。今回は三つ目の切り口から論じていこうと思う。それは、低俗であるという気分がマンガを読んだ読者によって作られたと考えられるからである。また、作者研究と作者との関係からみる作品研究では、その低俗性を視野に入れたマンガ存在を論ずることは難しいと思うからである。つまり、作者が作品の中に書いた情報の中に、作者の意図、テーマのレベルでのマンガの低俗さがそこに描かれている可能性は少ないと考えられるからだ。しかし、作品を描いているのが作者である以上、作者の読者に提供する情報の中にマンガの低俗さがあると言うことは間違いがないようにも思われる。それを無視することはできない。そこで、前述のように読者からの作品の受容を考えながらも、作者も読者と作品とそれの受容のつながりの中に位置づける必要がある。

 これまで述べてきたように、本論文では「マンガは何故低俗と言われているのか」ということを念頭に置き、マンガの独自性を受容という観点から捉えていく。



[1] 竹内オサム『マンガの批評と研究+資料 改訂版』木村桂文社 より

[2] 根本正義『マンガと読書のひずみ』高文堂出版社 より

 ⇒ 第1章 受容と期待
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