サルトルは「創造は読書の中でしか完成しない」と説き[1]、また、エーコは「一連の刺激に反応し、それらの刺激間の関係を理解するという行為において、各享受者は、ある実存的な具体的状況、特殊な制約を受けた感受性、一定の文化、趣味、性向、個人的先入観を持ち込むため、元の形は一定の個人的視点に従って理解されることになる。」[2]と述べる。これは読者が文章を解釈することによって始めてそれが成り立つと言うものである。私はマンガにもこれが言えるのではないかと考える。読者はマンガとしてそこに描かれているものを自分の経験にしたがって組み立て、そこではじめて成り立つと思われるからである。そして、そのときに問題となるのは、読者はどのようにその要素を組み立てようとするのかということだろう。その意味で読者の経験から来る「期待」を考えることは有意義なことだと思われる。ここでは、読者の期待とはどのようなものなのかということ、そして、作者はどのような読者を想定して作品を作るのかということを考える。具体的には、ヤウスの「期待の地平」という概念と、エーコの「開かれ」という概念をここでマンガに導入したい。
1−1 受容とは何か
我々が何かを理解することは、それを受容することによって可能となる。それは前述したサルトル、エーコからの引用からもわかりやすい。受容とは、例えば小説を読む場合、そこに書かれた文字と文字の関係からある単語を組み立て、その単語と単語の組み立てにより文章を知り、文章と文章の繋がりによりストーリーを知る、この一連の動作である。更に、その繋がりを組み立てるのは作品を提供する作者ではなく、作品という作者が提示した要素の集合から、自らの経験にしたがって取捨選択をする読者にある。
マンガにおける受容とは前述の受容についてもほぼ同じであろう。小説と違うところは、マンガには絵という要素、コマという要素があると言うことであり、それに文字を合わせた三要素を頭の中で組み合わせることがマンガの受容であろう。
1−2 作者の想定するもの
ここでは1−2−1と1―2―2によってU・エーコによる「開かれ」と作品の関係、作者の関係を整理し、1―2―3にて作者はどのように作品の開かれを決定するのかを考える。
1−2−1 「開かれ」とは
作者は読者に向けて作品を発信する。そのときに、読者がこのように読むだろうということ想定し、その読み方を作品に内包させる。そして多様な読み方が可能な作品を作り出す。このときの多様な読み方が可能なものこそ、エーコの言う「開かれ」ているものである。即ち、読者が多様な読み方が可能であると言うことは「開かれ」ているということである。逆に「閉じられ」ているということは、一つの意味を強制されるということである。これはエーコによる道路標識の例がわかり易い。道路標識は「止まれ」などの意味によって道路標識なのであり、そこに、空想的な解釈を引き起こすならばそれは道路標識でなく、一つの意味しかとりえないために道路標識は「閉じられ」ているということである。
「開かれた作品」の中で、エーコは三つのレベルでの「開かれ」を言う。それは、第一に動的作品、第二に開かれを意識されたもの、第三に開かれた解釈のできるものである。動的作品とは、作者が作品の具体的要素を読者に提供し、読者が自分で組み立てることにより作品が完成するものであり、それは意味のレベルではなく作業のレベルで既にそのようになっているものである。即ち、広い意味でのインタラクティブアートと言えよう。それに対し、二と三の「開かれ」について、二は開かれを意識されていくつかの解釈の道をはじめから用意された作品であり、三は、解釈の道を用意されなくともすべての作品はそれを受容するものの個人的経験により理解されると言う意味において「開かれ」ているということである。今回は特に後者の二と三の意味での「開かれ」について考えるべきだろう。
1―2―2 作者と作品と「開かれ」
作者はどのように「開かれ」を考えて作品を作るのか。前述もした通り、作者は読者に読まれることを想定して書くと考えよう。そのときに問題となるのは読者が何者かである。それは、読者がどのような社会の中に属しているのかと言うことを考えなければ、読者が読める作品を作ることはできないからである。これは、日本語をまったく触れたことの無い人が日本語で書かれた文章を読もうとしても、それを読むことはできないということである。すなわち、この場合であれば、その人にその作品は「開かれ」ていないということである。これを逆に考えると、作者は作品を送り出す際に、作品にあらかじめ「開かれる」べき範囲を設定していると考えられる。そして、それはこのように知識的な問題でなくとも意味解釈の問題でも言える。これについて、エーコはダンテの「書簡十三」を例に取り述べている[3]。これは、作者は文字を取捨選択し文章を作るが、読者がその文章を解釈するときは、その取捨選択された文字、単語、文からなる意味内容から解釈するわけであり、作者がその意味の範囲を文字の選択ということによって範囲付けられるということである。ここまで述べたことから、「開かれ」ているものは、読者により無限の解釈が可能であるがそれは作者が作品を作ることによって決めた範囲の中でということがわかる。
1−2―3 作者の作る作品とは
作者がその作品の中に読まれるべき範囲を設けることはわかった。次に、どのようにそれを決めるか、またはどのように決まるかを考える。作者は作者である前に読者である、それは、たとえ作者が自分の書いた作品以外を読んだことが無くても、自分の書くものについては常に読んでいると言えるからである。それは、自分の書く作品を書くと言う行為と同時に読んでいるという意味である。ということは、第一の読者は作者であるわけで、作者は作者自身を読者として想定していると言うことが考えられる。作者は、読者であると言う意味から、自分の読みたいものを作ろうとするだろう。それは、次の1−3にて述べることになろう読者による作品に対する期待をそこに反映させるということである。しかし、これでは一見、複数の読まれ方は想定されず、一本道の「閉ざされ」たものであるように見える。それは、一見である、実際は、作者の期待自体が、他作品や作者の経験によって作られていると考えられ、その意味で、作者と同じような経験をしてきた人間では当たり前のように感じることも作者とはまったく違う経験をしてきた人間にはそれは新鮮なものでありうるわけであり、作者が作品を作るにあたって参照せざるを得ない要素の中からその「開かれ」は作られていくわけである。即ち、それによって作者は多角的な視点での読み取りが可能な作品を作るのである。また、それが作者個人のことでなくとも、作品自体に社会的な規制がかかる場合はその社会的な何らかの要素もそこに影響を与えることになるだろう。
1−3 読者の期待するもの
ここでは、まず、これまでに読者がどのような位置にあるとしてきたのかを整理する。読者が作品を解釈することによってはじめて作品は成り立ち、また、作者は読者に向けて作品と共に「開かれ」という、解釈することのできる範囲を設定する。そして、その範囲の中で読者は解釈を行う。さて、そこで次に考えなければいけないことは、どのように解釈しうるかということであろう。ここでは、作品について読者は期待によってそれを行うと考える。これについてH・R・ヤウスの『挑発としての文学史』を参考としたい。
1−3−1「期待の地平」
「予知」とは「経験の一つの契機であり、それによって、われわれが知ることになる新しいものが、総じて経験可能に、つまり、経験のコンテクストの中で、いわば読み取り可能になるのである」[4]この文章をまず考える。ここでは、予知(期待)することによって、はじめて作品を読み取ることができると言っている。そして、その予知も、読み取る読者の経験によって形成されると言うのである。これは、絶対的にまったく新しいものが生み出されるということはありえず、常に何らかの基盤の上にそれは成り立っているということから言える。例えば他作品であり、社会的な事実であり、暗黙のルールである。このように新しいものも既に存在するものの上に成り立っていると言うことは、それを解釈するためには、既に読者が知っている何らかを参照しているということであり、すべては経験によって理解されうるのである。そして、その経験が常に個人的なものでありうるために、読者の数だけ経験があり、読者の数だけ理解もありうると言える。また、ヤウスはこの経験からの予知を「期待の地平」と呼び、それの因子として「1、既知となっている規範、あるいはジャンルの内在的詩学」「2、文学史的に周囲を取り巻いている著名な作品との暗黙の関係」「3、虚構と現実」の三つを挙げている[5]。即ち、ジャンルやその媒体におけるルール、過去の作品、現実との接点の三つの因子によって「期待の地平」はつくられるのであり、この因子によって理解されると言えるだろう。
1−3−2「期待の地平」の変化
「期待の地平」とは何か、それは経験からくる期待によって作品を理解するというものであった。このとき、当然なことではあるが「期待の地平」は変化しうる。それは、読者が生きている限り、常に何らかの経験をしているという意味において、すぐにわかるだろう。また、読者は作品を受容することによっても、それを変更し得る。読者がある作品を受容するときに、読者の慣れ親しんできた経験を否定したり、または初めて何らかのものが明白になった経験をするかもしれない、このときにその経験は更新され、期待の地平は変更されうる。しかし、その受容による新しく経験されるものが読者の「期待の地平」からはるかに遠いところにあるならば、もはや地平は変化せずにその作品を受容することもできない。これは、読者が作品を理解する際に今までの経験を参照すると言う意味で、新しくなされようとしている経験が今までの経験とは明らかに性質が異なるならば、それを今までの経験から理解することができないからである。このように、期待の「地平は変化」しうるが、一度の変化の度合いには限界があると言うことがわかろう。