ここでは3での分析を踏まえ、受容と独自性について考えたい。
4−1 マンガの独自性
それぞれのマンガ要素にて期待されたものから、マンガの独自性とはどのようなものかここで考える。
コマと映像
3−2−3で分析した『AKIRA』のようにコマのリアリティを強化した劇画は、現実から生じる期待である現実の時間の流れや現実に眼に見える客観的な3次元世界の記述をコマの中に落としこむ。それによって、その世界があたかもコマという窓の外側に存在するように見えるのである。コマによるリアリティが高い作品自体が、実際にカメラを使って撮影するドラマにおける期待(1−3−1の期待の三要素)としての「過去の作品」になり得る。マンガ以外の媒体の期待になり得るということは、それは即ち、コマによるリアリティは他媒体との架け橋であり共通点である。つまり、この要素はマンガ独自のものとは言えない。また、コマのリアリティの強化はマンガのキャラ性と言葉のリアリティを抑圧していく。それは。3次元的な世界の中で、人物にもその背景と同じリアリティを期待するならば、キャラの可変性が小さくなる。つまり、3−4−2で述べたような表情のデフォルメも行えなくなってしまうのである。更に、言葉についても同じである。コマをカメラのフレームと考えることにより、3−3−2のような言葉による多層コマ構造をとることができずにそれを抑圧せざるを得ない。さて、それではコマのリアリティの強化は視覚的に捉えることが可能な三要素のマンガ的なるものをすべて抑制し、コマによる映像作品へのつながりから映像化していくのではないか。これについて、『AKIRA』の作者である大友克洋を考える。彼はもちろん漫画家である。しかし、この『AKIRA』の後、その活躍の場をマンガから映像作品に移した。彼は、自分の伝えたいことはマンガよりも映像に込めた方が、効率がいいと考えたのだろう。このように、コマのリアリティの強化の中にてマンガの独自性を見つけることは難しい。もし、コマのリアリティの強化の中にマンガの独自性を発見するのならば、それは構成上にしかありえないだろう。
言葉とコマ、構造
言葉の期待は「過去の作品」として小説や詩などの文章を取り上げる。そして、それを文章よりもわかりやすいように、その文章自体の雰囲気を表現するようにコマと絵を配置する。それによって少女マンガを読むためのルールである内在的な詩学を更新していく。このとき、期待自体が文章表現から出発しているので、十分にそれらのものとの接点がわかろう。また、言葉のリアリティの強化は何につながるのか。言葉によって、コマのフレームや絵の関係に因らないコマ構成が可能であった。そのためにそのマンガは作者の側までさかのぼることが可能になるのである。さて、作者の言葉は3−5−3のように、または3−3−2の図のようにコマを超えてエドガーが描かれるように、フレームを超えるキャラのリアリティにつなげることができる。そう、言葉のリアリティは、多層コマ構成によってキャラのリアリティを強化するのである。それが何を意味するか。文章表現への言葉におけるマンガ的なるものの影響が考えられよう。つまり、「キャラ」としての要素が文章表現の内へと影響を及ぼすのである。そこで、文章には絵がない、それでは影響の仕様が無いと思われるかもしれない。だが、そのキャラに付随する性格などの要素、キャラがキャラクター性に影響する要素がそのまま文章になりうるだろう。マンガにおいて、「キャラ」というものがリアリティを得るために、一目でそのようだとわかるデフォルメされた人間の形とデフォルメされた振る舞いを必要とした。そのときのキャラに内包されたキャラクター性がそのまま文章化されうると考えられる。具体的には、『ポーの一族』においては、子供はすべて中性的なキャラで描かれており、そこからか、キャラクターのレベルでの同性愛的な要素が多々存在した、これは、視覚的に性別を規定されないキャラだからなしえたキャラクター性であろう。『マンガの国ニッポン』で述べられているように「自分も作風が少女マンガの影響を受けたことを認め[1]」ている吉本ばななのキッチンなどで「性転換が当然のごとく現れる[2]」ということについて、彼女が萩尾望都と同じ24年組である大島弓子のファンだったということからも、言葉のリアリティの強化によるキャラの文章化の可能性はわかろう。言葉のリアリティは他媒体からマンガに向かい、そしてマンガからまた他媒体へと向かう。マンガの独自性をそこにあらわすと言うよりもむしろ、マンガと他媒体をつなぐ役割を持つといえよう。
キャラの独立
3−4−2にて、「絵」の期待を考えた。そこで、絵とキャラの分離と、キャラの特殊性を見た。ここではそれがマンガの独自性となり得るかを考えよう。さて、絵とキャラが分離していることは何を表すか。それは、前述のような、キャラの独立性である。キャラはその期待の性質上、作品世界から抜け出しうるといえよう。また、抜け出したキャラはもはや人間である必要は無い。我々が住んでいる現実の世界を背景とするためには、人間とキャラとの形の違いから、そのキャラが人間であるという図式はもはや成り立たない。そのために、キャラはキャラであるというように解釈される。それによって、立体商品になり得ると思われる。このようにして、キャラを作品世界から独立させて、キャラクター商品にし得るのである。
しかし、キャラクター商品にそのキャラがなったからとて我々はその対応を変えないではないかという反論があろう。つまり、アンパンマン[3]の人形でも子供はそれをアンパンマンというキャラではなくアンパンマンという人格をもったものと想定してごっこ遊びをするということだ。それはどのようなことなのか、これはキャラとキャラクターの混同であるように思える。これは、『テヅカイズデッド』でも述べられているようにキャラとキャラクターは意識しない限りは通常分けて考えないということである。極端な例を言うと、「○○はどんな人か」と誰かに聞かれたとき「やせている人(外見的なもの)」とも答えられるし「やさしい人(内面的なもの)」とも答えられるということがマンガの登場人物についても起こるということである。これによって、キャラはそれのキャラクター性をその中に内包することが可能なのである。つまり、目の釣りあがったキャラであれば怖そうに見えるということである。これがもともと作品世界の中に存在しているキャラであれば読者の経験によって、それがもっと大きく現れうる。つまり、キャラが独立しているアンパンマンの人形であれば、アンパンマンはバイキンマンと戦う正義の味方であるとの経験から、そのアンパンマンとしてのキャラクターがそこに内包されるのである。これによって実際に作品世界内に存在していないキャラでもそこにキャラクター性を期待され、それがキャラクターであるように見えるのである。
これによって一つ考えられることがある。それは、キャラを描くためには必ずしも現実の人間を参照する必要が無いということである。例えば、人間にかなり似ているキャラがあったとしてそれを作品世界内で動かせば、それは人間として捉えられる、このときの作品をAとする。次にAを参考として作られた作品をBとし、そのBはAのキャラには似ているが現実の人間とは似ていないキャラであったとする。しかし、そのBのキャラはAのキャラに似ていると言う意味で、Aのキャラクター性を少しであれ内包しているといえよう。それの繰り返しにより、最終的にはまったく人間には似ていないキャラがつくられ、それも過去に成り立ったという経験からそこにリアリティを感じ得るのである。それが、今現在の「萌え」という文脈で捉えられるような明らかに人間離れした目の大きさや、髪の色にリアリティをもたらしているのではないだろうかと考えられる。つまり、このときのキャラのリアリティとは、そのジャンルの内在的詩学に依存し、現実やマンガ以外の他作品の影響は少ないだろう。これは他からの影響として作られたマンガの要素ではなく、そもそものマンガに存在する独自性であると言えよう。
構成、開かれの大きさ
さて、マンガ要素のうち最後のものをここでとりあげる。それは構成である。『ドラゴンボール』のような構成をとるものは、コマとコマとのつながりがはっきりしていて、その意味を読者がいちいち考えなくとも理解可能だった。つまり、開かれの狭いものであった。そして、これは、絵によってコマのつながりを表すために文章のみの表現よりも視覚的にわかりやすく、文章表現のみにおける開かれの狭い作品よりも、更に開かれが狭いといえよう。さて、『ドラゴンボール』のような読者主体の作品の開かれの狭さはわかった。それでは、ねじ式ではどうだったか。『ねじ式』はその構成の中の二次元的なマンガ表現の効果がコマとコマとの関係から見つけ辛いために、それを読者が推測しなければならず、その意味で開かれが広い作品だと言えた。しかし、『ねじ式』においてのその二次元的なマンガ表現ははたして、その作品だけで完結しているのだろうか。それは違うだろう。このときに開かれが広いとは言え、開かれている対象の読者はその開かれが広いことを自覚できるものに限るのだ。日本語が読める人にしか日本語の意味が開かれていないように、このときの二次元的なマンガ表現の開かれが広いことを無自覚であれ知っていることが必要である。それは、脈絡無くある表現が突然出てくることによる「違和感」によって、はじめてそこで読者は立ち止まりその意味を考えるためである。また、そのマンガ表現は通常どのような場面で使われているかというそのマンガ表現単体での意味をある程度推測できる知識がなければ読めない。つまり、このマンガを読むためには訓練をつまねばならないのだ。さて、訓練とは何か。それはマンガの他作品を受容することにより、自らの期待の地平を更新することである。また、そのマンガは『ドラゴンボール』のような開かれの狭いものがいいだろう。何故なら、前述のように、開かれが狭く今までマンガを読んできていない人でもすんなりと意味を理解することができると考えられるからである。このように、『ねじ式』のような芸術的といわれるようなマンガはそれを理解するためには第一条件として、マンガを読める、マンガの文法を理解していることが必要なのである。このように、構成によるマンガの独自性は、『ドラゴンボール』のような作品の開かれの狭さ、そして、マンガ文法とそれを理解するためのプロセスにあろう。
4−2 マンガの低俗性
ここでは、独自性から低俗性の由来を推測する。
キャラと構成
さて、マンガの独自性とはキャラという人間ではないものがリアリティを持つことと、開かれの狭いものを入り口にしないと開かれの広いマンガを読むことが難しいということだろう。これはそれぞれマンガの低俗性の由来となり得るだろうか。十分なり得そうに思える。まず、キャラをその由来と考えるならばこのようになろう。結局マンガの中には人間が居らず、キャラだけがそこに居る。その意味で、マンガの中に描かれるものを人間と見て、他の媒体、文学などと比べたならば、ちぐはぐで何かおかしく見えるのである。つまり、人間を描くものとして、キャラから作られたキャラほどそれに適さないものはないのである。そして、構成からそれを見るならばこうである。開かれの広い、芸術的、または文学的とでも言われるような作品はマンガの文法を知らなければ受容することができないために、開かれの狭いものをまず読まなければならない。つまり、開かれの狭いものを読むことはマンガを読むための必然だが、開かれの広いマンガを読むことは任意である。そのために、開かれの広い作品の領域まで踏み込まないマンガ読者は多いだろう。そして、それらの読者は、マンガを誰でも頭を使わずに読むことができる媒体だと理解する。そのような理解からマンガとは開かれの狭いものであると考えるために他媒体よりも低俗であると考えることにつながるのだ。
閉じたコミュニティ
更に、キャラとは前述の「萌え」の例のように、閉じたコミュニティを形成し、その中で閉鎖した進化をしやすい。それは、成り立ってきた作品の連続による作品ジャンルの内在的詩学の変化によって起こる問題である。これによると、その期待の変化の連続の中にある作品をある程度知らなければ、突然現れた歪なキャラによってその作品を受容できなくなるということである。即ち、それを積極的に知ろうとする受容に積極的なコミュニティとそうでないものの間で読めるか読めないか、何を期待するのかということが変わってしまうのだ。これがおそらく今言うところの「オタク」というコミュニティだろう。また、構成のレベルでもこれに、更に拍車をかける。構成も、前述のようにマンガを日常的に読む人と読まない人の間でその開かれは大きく違い、後者は前者には読めないという二重の構造となっていた。このように低俗か低俗でないかを読者が判断する前に、読めるか読めないかという根本的なレベルで問題が起こる。
現実を描くことの限界
キャラを書くこととキャラクターを書くこと。ひたすら客観的し、キャラをそもそもキャラクター化して書いていくことは劇画化につながることからもマンガの限界が見える。それを解消する方法が今はない以上、キャラ性はどこかで肯定しなければいけない。だが、キャラ性の肯定はノンフィクションマンガの限界を表す。我々が生きている現実にはキャラは生きていない。キャラではなく人間が生きているのである。つまりキャラしかそこに記述不可能なマンガ表現ではわれわれが生きている現実を描けない。それは、山本直樹が『レッド[4]』をノンフィクションの内容を取り上げながらもフィクションとしてそれを描くようにである(そもそも文章でのノンフィクションも現実を完全に再現できない意味では、フィクションではないかということも言えようが、それを超えてマンガにはキャラが存在してしまうために、そのキャラ性を抑制しない限りは現実との齟齬が文章表現よりも大きいと考えられよう)。しかし、広い意味でのノンフィクションとしての自伝的作品であれば、それは描かれている。たとえば『ダーリンは外国人[5]』であり、たとえば『長い長いさんぽ[6]』である。ここではそのキャラ性をどのように現実世界に適応させているのか。まず一つ目は、ひたすら一人称で作品を展開することにより、作者=主人公の関係を強固にすることであろう。それによって、『ねじ式』のようにすべてのコマは主人公の頭の中でのことであることで、それは客観的な現実ではなく主人公視点の現実であると言い換え、それによって現実に存在しないキャラをフィクションの中で動かし得るのである。更に、『ダーリンは外国人』や『長い長いさんぽ』のようにギャグマンガのテイストをそこに加えることで、キャラの変形による心理描写の表現をより簡単にする。たとえば、キャラが突然大きくなったり(態度が大きくなる)小さくなったり(態度が小さくなる)のようなキャラの変形に伴う心理描写を、フィクションを描きながらも可能とするのである。このように、マンガによる現実の描写はある特殊な状況に限定しないとそれを可能としない。
4−3 低俗性の克服
さて、もしも4−2で述べたことようにキャラと構成のリアリティが低俗性につながるのだとしたら、それを克服するにはどのようにすればいいのかここで考える。
4−3−1 独自性の利点
マンガの独自性が低俗性へつながることはわかった。しかし、それがつながるのは低俗であるということだけではないだろう。ここでは、独自性の利点について考える。特に、ここでは開かれの、広い作品を誰もが読めるわけではなく、開かれの狭い作品を読む必要性と、開かれの狭いマンガはコマの連続が絵を伴う表現によって明確であることからの他媒体よりも狭い開かれをここで考える。「開かれ」が狭いということは即ち1−2−1のように一つの意味の理解を強制する道路標識に近づく状況である。マンガが絵と文章を伴うコマの連続で記述されることによって小説などの文章表現よりも視覚的かつ直感的な理解を促し、単なる絵とは違いストーリーと時間経過をその中に表すことができた、そして、そのコマとコマとのつながりが明確に理解可能であることによって開かれは狭くなり、情報伝達の媒体としてこれは成り立ちうるのだ。また、これが物語を記述することに適するため、その情報をストーリーの中で理解させることが可能なのである。つまり、飽きさせない魅力的な情報媒体となる可能性があるのだ。たとえば、今現在あるものとして、教育に使われるマンガである。『学習漫画日本の歴史[7]』のようなものだ。更に、マンガ広告など今現在はよく展開されていることもその一つの例だろう。そのような情報伝達媒体として利点がある。しかし、ここで注意しないといけないのは、前述したような現実を描くことの条件である。学習マンガにおいて、その殆どは一人称で心理描写を多用して綴られるものではない。そのように、そこには現実の情報を描きながらもそれに現実自体を描くことは不可能である。つまり、作者が用意した伝えたい情報をそこにこめて読者に読ませることは可能であるが、作者による現実の要素の取捨選択と、辻褄あわせによってできたもので、登場人物の行動や考えは作者の伝えたい情報のみに特化して極端にデフォルメされたものであるということを忘れてはならない。それは絵を使う以上、文章よりも視覚的にわかりやすい極端なデフォルメを必要とするのだ。つまり、マンガを情報媒体として使うためには、開かれの狭さによって情報量が制限され、作者は伝えたいことを極端に強調して描くことが必要となる。なので、概要を理解することには大きな利があるだろうが、それを資料として多角的な解釈を展開していくことは難しいだろう。
4−3−2 これからのマンガ
さて、ここでは情報媒体としてではなく、芸術やエンターテイメントなどの一般的なマンガ用途における低俗性の克服について考えていく。これまで述べてきたように、受容においてマンガとはこの二つ独自性からなり、その二つともが低俗性の由来となりえるとした。それではその二つをどのように変えていくことによってその低俗性から脱却できるのだろうか。
まず人間ではないキャラが何故リアリティを持っていたのかを考える。作品間の受容の連続による、つまり既知の作品からの期待とそれによる作品の内在的詩学の変更によってそれはリアリティを持っていたのである。さて、それならその作品間の受容の連続を断ち切ることが必要ではないか。それを断ち切ることによって、キャラを現実に立ち返らせ、そこで現実とのつながりを強化することで人間を描くことができるようになるのではないかと考えられよう。しかし、事態はそう単純ではない。この試みは既に『AKIRA』にて行われた。前述もしたがコマのリアリティの強化によってキャラを抑制し、現実からの期待をそこに結びつけた。だが、これは映像作品への接近を促し、そもそものマンガの独自性をすべて抑圧してしまったためにマンガで表現するという必然性を失ったのである。そのため現実にキャラを直接結びつけることに活路を見出すことはできない。それではどうするか。それは今でも試みが続けられていよう。たとえば、『のらみみ[8]』である。このマンガ内ではキャラがキャラとして扱われる。つまり、作品世界内には人間以外に「キャラ」
という生物がいるということだ。それによって、作品世界内で人間とされているキャラを、それが「キャラ」という生物ではないことからキャラではないと強調する。つまり、そのキャラ性の集中を作品世界内の人間以外に設けることで、キャラである作品世界内での人間を現実世界内の人間であるようにごまかすのである。また、キャラである「キャラ」という生物は既にキャラであることを肯定されているためにそこに違和感が生まれないようにしているのだ。また、『おやすみプンプン[9]』という作品がある。これは、主人公のプンプンという作品世界内での人間それだけを鳥のようなキャラによって描く(図47)。それ以外の作品世界内での人間は、もちろんキャラでありながらも人間の形のキャラで描かれるのだ。これは何を意味するか。主人公の姿を消すのだ。こどもの落書きのようなキャラにてその作品世界内の主人公だけにモザイクをかけることによって主人公の姿を消し、その代わりにその表情などの心情表現がこどもの落書きのようなキャラの上に現れる。ここでは姿のない主人公によって読者がそこに感情移入をしやすいようにし、そこに感情移入することによって読者=主人公という図式が成り立つ。それによって主人公の一人称の語りでなくてもそれを受容する現実の人間と突合せ、人間を表現しているのではないだろうか。
また、開かれの狭いものをまず通過しなければ開かれの広いものを受容できないという状況はどううけとるか。これは克服することが難しいだろう。つまり、コマとコマのつながりが明確であればあるほどそれが受容されやすいことは明白であり、『ねじ式』などのマンガを大衆向けに作り直そうとしても、コマとコマとのつながりがすぐ理解可能にしなければいけなくなりその開かれを狭くしてしまうからである。また、今現在たくさんのマンガが読まれているのは、キャラが閉塞的な進化を続けている以上、キャラ性ではなくこの構成の開かれの狭さによるものだと思われる。つまり、期待の地平が低いためにだれでも理解可能であるような作品がマンガのルールを世に知らしめることによって、閉鎖的なキャラ性にもリアリティを与え、更に開かれの広い作品にもリアリティを与えるのだ。つまり、この開かれの狭い作品をなくしてしまえば、それこそこのバランスが崩れ、キャラのリアリティを感じること、開かれの広い構成からリアリティを感じることがそれぞれ一度に不可能になろう。そうなったらマンガはおしまいである。マンガは閉ざされたコミュニティの中だけでしか理解されなくなるのだ。つまり、開かれの狭い作品は現在のマンガの受容を成り立たせる重要な要素なのであり、それを消去することは不可能であろう。
マンガの低俗性が今まで述べてきたことを理由とするならば、特に開かれの狭さの問題によって、世界中の人がマンガのルールを理解しない限りはそれを克服することは不可能である。そして、世界中の人がマンガのルールを理解することは現実的には非常に長い目で見なければ難しいだろう。しかし、キャラの閉塞的な進化がこれからどこまで進むのかはわからない。それは、一般の人々がマンガを受容するためには邪魔になろう。極端なデフォルメの連続によるキャラは、そのキャラを理解するための期待の地平が高くなりすぎて広く受容されるためには障害になるのだ。もしもこのままキャラがそのような中で進化していくのならば構成の開かれとで保たれている現在のバランスが崩れてしまう。もしかしたら「オタク」という言葉がこの社会に出てきてしまった時点で、そのキャラによるマンガ受容の崩壊は既に始まってしまっているのかもしれない。これを止めるためにも、今後にマンガのルールが社会に浸透しその低俗性を解消するためにも、今後、キャラがどこかで直接的な現実とのつながりを持たなければならないだろう。
図 47『おやすみプンプン』1巻p56
[1]ジャクリーヌ・ベルント著 佐藤和夫、水野邦彦訳『マンガの国ニッポン』花伝社 p12
[2] 同上 p13
[3] アンパンマンとは、やなせたかしの『それいけ!アンパンマン』の主人公。人の形をしているが頭はアンパンでできているヒーローである。また、バイキンマンは『それいけ!アンパンマン』に出てくる悪役である。
[4] 山本直樹『レッド』:1969年〜1972年の日本を舞台にし、連合赤軍やその周辺の革命を目指した若者を描く作品。2010年1月現在講談社『イブニング』に連載中。
[5] 小栗左多里『ダーリンは外国人』:小栗左多里とその夫のトニーラズロの日常を自身の体験に基づいて自伝的に描いた作品。
[6] 須藤真澄『長い長いさんぽ』:須藤真澄と愛猫のゆずの日常、そしてゆずの死までを描いた作品。
[7] 『学習漫画日本の歴史』:小・中学校の学習指導要領にそった内容で、マンガによって日本の歴史を描いた作品。
[8] 原一雄『のらみみ』:子供のいる家庭に居候する「キャラ」というものが当たり前な世界での出来事を描く作品。2003〜2009年連載。
[9] 浅野いにお『おやすみプンプン』:主人公プン山プンプンの周囲の出来事を描く作品。この作品最大の特徴は主人公のキャラだけが落書きのようになっていることである。2010年1月現在、小学館『ビッグコミックスピリッツ』にて連載中。