本論文では順を追って、マンガ存在とはなにか、そしてその独自性、低俗へのつながりと論じていった。ここではそれを一度振り返りまとめよう。
まず、マンガ存在の独自性とは何だったか。マンガは「絵」と「コマ」と「言葉」の「構成」により時間を記述し、物語を記述する。劇画と少女マンガではその方法が少し異なり、劇画ならば「コマ」が力を持ち、少女マンガなら「言葉」が力を持った。しかし、その二つの要素も受容から見た独自性を考えるとき大きな意味は持たなかった。つまり、マンガをマンガ足らしめている最大要素は「絵」と「構成」である。更に言うなら、「キャラ」の現実に即さないリアリティ形成と、構成による「開かれ」の狭い作品のその「開かれ」の狭さ、そしてそれを窓口にしなければ「開かれ」の広い作品を受容できないことだろう。
また、そこから本論文序章にも述べたような低俗性へのつながりを発見する。もちろん、低俗というものが社会的な気分である以上、前述の独自性が低俗性へとつながるということは確固とした事実ではなく推測である。しかし、少なくとも、それには妥当性があっただろう。
ここまで述べてきたことによって、独自性、そして低俗性の先にマンガの限界と、マンガ受容の根本に関わる問題が見える。それはキャラと構成の開かれの関係と、それが非常に微妙なバランスで成り立っていることである。低俗性が、もしも前述のことを由来として持つならば、その低俗性の克服をしなければキャラの閉塞性が開かれの狭さによる受容の容易さを超えてしまう可能性があり、それではこの先のマンガは受容されなくなるとの危惧である。そう、これ以上構成での開かれの狭さを更に狭くしていくことができないのであれば、キャラの閉塞的な進化をどこかで止めなければマンガ受容の今後はない。マンガ存在は、そのキャラ性を現実にどこかで結びつけなければならないのである。
今後、マンガはどこに向かうのか、ただ現実から離れていくだけなのか、それとも一定の距離を保つのだろうか。
参考文献:
ジャクリーヌ・ベルント著 佐藤和夫、水野邦彦訳『マンガの国ニッポン』花伝社
竹内オサム『マンガの批評と研究+資料 改訂版』木村桂文社
根本正義『マンガと読書のひずみ』高文堂出版社
J・P・サルトル著『文学とは何か』人文書院
ウンベルト・エーコ著 篠原資、和田忠彦訳『開かれた作品』青土社
H・R・ヤウス著 轡田収訳『挑発としての文学史』岩波現代文庫
伊藤剛『テヅカイズデッド』NTT出版
『マンガの読み方』宝島社
『ユリイカ−マンガ批評の新展開』青土社
夏目房之介、竹内オサム『マンガ学入門』ミネルヴァ書房
手塚治虫『地底国の怪人』講談社
大友克洋『AKIRA』全6巻 講談社
萩尾望都『ポーの一族』(萩尾望都perfectselection6、7)全2巻 小学館
あずまきよひこ『よつばと』9巻 アスキー・メディアワークス
鳥山明『ドラゴンボール』全42巻 集英社
つげ義春『ねじ式』小学館
赤塚不二夫『天才バカボン』小学館
空知英秋『銀魂』32巻 集英社
うすた京介『ピューと吹く!ジャガー』18巻 集英社
山本直樹『RED』3巻 講談社
小栗左多里『ダーリンは外国人』 メディアファクトリー
浅野いにお『おやすみプンプン』5巻 小学館
原一雄『のらみみ』全8巻 小学館