マンガ存在論 〜受容からみるマンガの独自性〜


2010/1 (学生時代に書いたまま手直ししていません)

第3章 作品分析

3―5 構成によるリアリティ:ドラゴンボール、ねじ式



3―5 構成によるリアリティ 

 ここでは、構成によるリアリティである、ストーリーとキャラクターについての期待の地平を考えていく。

 

3−5−1 構成とは何か

 2−1−2、そして2−2−2にて、ストーリーとは「絵」「コマ」「言葉」の三要素の構成で作られると書いた。このように、ストーリーとキャラクターというリアリティ要素は両者とも構成によるリアリティ要素であるとわかる。

 さて、ストーリーとキャラクターが構成によるリアリティ要素だとわかったところで、更に、ここで構成とはどこで行われるのかについて考える。受容に重きを置いて考える時、それは読者の頭の中であるだろう。それは、受容されることによって初めて、描かれたもののつながりを発見することが出来るという視点である。つまり、読者が受容しない限りマンガはただのコマで区切られた、絵と言葉の集合であるという見方である。

 しかし、読者の頭の中にストーリーがあるということは作品の中の構成を理解することが主観の中でしか不可能であるように思える。つまり、よくある事だが、私が理解したものと他の人が理解したものはまったく違う可能性が高いと言うことである。そのときに、私と誰かの主観、どちらが正しいかは誰にもわからない。このように、ストーリーやキャラクターを論ずる場合、その理解の振れ幅が大きい。その作品の「開かれ」は無限大になる可能性があるのである。このように、それを分析することは不毛なことになりかねない。さて、そうとするならば今まで、3−2、3−3、3−4にて分析してきたマンガの三要素としての「コマ」「絵」「言葉」も「開かれ」の中にあると言う意味では、読者に「読めるか読めないか」が託されていると言えるのではないかと言われよう。しかし、それは視覚的に捉えられるレベルに留まる為、そこまで理解の振り幅は大きくないと考え、再現可能なレベルでの分析ができたと考えたい。

 さて、今までの言い分では、構成は主観の中でしか作られずにそれを分析することは不毛であるとなり、ここで構成によるリアリティを分析することも意味が無いではないかと言われよう。もちろん、漠然とそのストーリーを追いキャラクターを見つけることだけではそのようになるだろう。それでは、どのように分析するのか。それは、今まで見てきた視覚的に捉えられる三要素がコマとコマの間でどのような情報を記述しているかというそのつながりから考える。我々はマンガを読むときに、そこに描かれている三要素のつながりからマンガをマンガであると考えそれを受容する。たとえば小説であれば、文字と文字がつながりから単語を理解し、単語と単語のつながりにより文章を理解する。更に文章と文章のつながりから作品を知るだろう。このときに、受容による頭の中での組み立てが複雑になればなるほどそこに主観的な理解が介入し、「開かれ」はその閉じられた状態から徐々に開かれ無限大に近づいていくのである。そして、これが頭の中で行われる構成を分析することが不毛であることの所以である。だからして、ここではその構成ができるだけ主観から遠いところにある、作品に一番近い構成、三要素のつながりを分析することによって構成のリアリティを知ることが可能になると考えそれを行うのである。そのため、ここで取り上げるものは今まで述べてきた三要素と重複するものもあるかもしれない、しかし、ここではそれ単体としてではなくつながりを重視して分析を行う。

 

3−5−2 分析対象

 ここでは前述したように、「ジャンプ系」「ガロ系」両者において典型的なマンガをそれぞれ取り上げよう。具体的には「ジャンプ系」であれば、鳥山明の『ドラゴンボール[1]』、ガロ系」ではつげ義春の『ねじ式[2]』である。

 まず、ドラゴンボールとは何か。それは、1984年から1995年までに週間少年ジャンプにて連載したマンガで、ギャグマンガ的な世界感から出発し、読者の要請によって徐々にバトルマンガ化した作品である。また、「『ジャンプ』を象徴する存在と化し[3]」とあるように、読者の影響が大きいジャンプ系のマンガの典型として、取り上げるに値するものだろう。

 次にねじ式とは何か。ねじ式とは1968年に月刊『ガロ』に掲載された作品でありつげ義春によって描かれた。つげ義春は「いわゆる「マンガ」と「劇画」の間に「私小説」「印象派」的な「芸術漫画」の居場所をつくりあげた[4]」とあるように、大多数の読者に読まれるように作られるジャンプ系のマンガとは違うマンガを意図して作品を作った人物である。ねじ式は彼の代表作であり、ここで言う「ガロ系」のマンガとして分析するに値しよう。

 

3−5−3 分析(ドラゴンボール、ねじ式)

(1)ドラゴンボール

 ここではドラゴンボールにおいて読者の影響がどのように作品に表れているのかということ、このような大衆向けのマンガに対して読者は何を期待しているのかを調べていく。

 

効果線とテンポ

 さて、16巻p62、63(図24)を見てもらいたい。このページではすべてのコマに効果線が書き込まれている。これを見てもわかるようにこの作品では効果線が多用される。まずは、構成を考える前にこの効果線について考える。既に3−3−3動きを捉えるカメラの項にても述べているが、ここであえてもう一度取り上げよう。効果線は、AKIRAの分析のとき述べたようにスピードを表す。これは図24のドラゴンボールのものでもわかろう。しかし、ドラゴンボールにおいてこの表現はスピードを表すのみではない。劇画においてはカメラとしてコマを見ることにより、カメラのピントのブレを表すことの延長としての速度の表現が主だったがここではその限りではないのである。それでは、これ以外にはどのようなものがあるのか。効果線は基本的にコマの中の背景部分に描かれる、それでは背景についての何か特殊な表現はなかったか。3−4−2「キャラ」の表情を思い出そう。人物の心情の背景への投影のような目に見えないものに対するリアリティをそこに発現させるための表現である。なるほど、効果線の意味としてそれもありそうだ。たとえば35巻のp12(図25)のような効果線の使い方はストーリー上でいう目には見えないもの「気」を発していることの表現として理解できる。だが、今までのべた二つの意味だけではすべての効果線の意味を言い切れない。これらのどちらとも考えられるが、どちらであるとも言い切れない表現がある。たとえば32巻p13(図26)である。もし、前述の二つの効果線の意味からこれを考えるとするならば、コマをカメラのフレームだと考えた場合のカメラの軌跡を線として描いたという解釈によりカメラワークとしてのズームインを表したと考えられ、また、心情や気などの目に見えない内面的なリアリティを表したと考える場合は手前の人物(セル)がそのセリフからもわかるように主人公(孫悟空)を予期せず発見し、そこに注目していることを表しているともいえる。これ以上の推測は主観を伴うことがここまでよりも大きくなると思われるので行わないが、両方のことが同様に言え、どちらが真であるとは言えない。また、それを読む私がそのように思うことができるという時点でこの効果線による違和感は少なくとも無いと考えられ、どちらで読み取ったとしてもこのマンガの文脈の中で成り立とう。

 さて、次に32巻p13(図26)の効果線自体の意味することからはなれ、その効果線によりわれわれはどのようにそのコマを見るのかを考える。つまり効果線による効果である。それを考えるとき、確実にいえることは、このコマの中でその効果線の真ん中にある情報こそが重要であると一目で思うだろうことだ。これにより、このコマの中で重要であると思われる要素の抽出が容易になり、あるコマとあるコマのつながりを読者が見るとき、つまり読んでいくときの読者側への負担が減ることに繋がろう。そして、作者の側でも読者が読み進めていくテンポをある程度調節することが可能になるように思える。それによって、効果線の多用はテンポを速め、読者はその作品の中で勢いを感じることができるようになろう。これは、ドラゴンボール内で効果線が特にバトルシーンで多用されていることからもその効果が勢いをつけることに貢献していることがわかるだろう。

Panasonic
MECH=


図 24 『ドラゴンボール』16巻 p62、p63

 

Panasonic
MECH=     Panasonic
MECH=


図 25 『ドラゴンボール』35巻p12     図 26 『ドラゴンボール』32巻 p13

 

コマを飛び越えるキャラ、飛び越えないキャラ

 さて、次に、コマについて考える。1巻p131の1コマ目(図27)を見てもらいたい。このとき、コマを一つの作品世界内での物的なものとして使っている。これは夏目房之介の「マンガの読み方」にあるようなマンガのフレームでの遊びの一つである。しかし、この表現方法は時代の移り変わりのうちに廃れた表現であると言えよう。その事について『テヅカイズデッド』にて述べられる。それは「「映画的リアリズム」が、強く抑圧しているのは、ここまで見てきたような「フレームの不確定性」と「キャラの持つリアリティ」」[5]とあるように映画的リアリズム、つまり前述したコマにおけるリアリティ、作品世界内がコマと言うカメラに区切られた三次元世界であるかのように思わせるリアリティがマンガの最低水準のリアリティとして求められることになることによって、3−4−2にて述べたマンガの中のキャラが人間ではないということが忘れられ、更にコマがカメラ以上の機能をもてなくなってしまったことを言う。そして、この表現は元々ギャグとしてではない自然なリアリティを持っていたが、映画的リアリズムの導入によってギャグとされ「80年代初頭の吾妻ひでおの作品などには見られていた[6]」とある。これはドラゴンボール1巻初版が1985年であることからも一種のギャグとしてこの表現が使われていたということがわかる。しかし、ギャグマンガにもこの映画的リアリズムの導入が行われることによって、それ以降この表現は廃れた。これは『天才バカボン』が平面的な絵で成り立っていることと、今現在のギャグマンガとして人気を得ている『銀魂[7]』や『ピューと吹く!ジャガー[8]』などは三次元的な作品世界を持っていることと比べることによって容易にわかろう。

 

Panasonic
MECH=


図 27 『ドラゴンボール』1巻 p131

 

 次に、2巻p51の2、3コマ目(図28)をみてもらいたい。ここでは登場人物の尻尾がコマの外にはみ出ている。2巻p84(図29)、についてもそうである。このようにドラゴンボール初期ではいくつか、人物がコマからはみ出している表現がある。しかし、話が進んでいくうち、コマからはみ出るという表現方法は、人物の登場シーンなどで全身が描かれ、登場シーンなどのその人物に注目が集まるシーンのみにしか使われなくなる。たとえば41巻のp158(図30)である。また、1巻p9、p10など1巻だけで10箇所以上使われるフレームの無いコマがある。しかし、これも後半になるにつれ消えていく、最後にそれが使われるのは14巻p157(図31)であり、それ以降は使われない。さて、これが何を表すか。これらは前述のような映画的なリアリズムの比重が後半になるにつれて大きくなっていることを意味しているように思える。

 

Panasonic
MECH=  Panasonic
MECH=


図 28『ドラゴンボール』2巻 p51        図 29『ドラゴンボール』2巻 p84

 

Panasonic
MECH=  Panasonic
MECH=


図 30『ドラゴンボール』41巻p158    図 31『ドラゴンボール』14巻 p157

 

 さて今まで述べてきた、コマにおける二つのことについてここで整理し、またそれらがこの全42巻の話のつながりの中でどのようなことを表すのかを考える。まず、ここで最初に述べたフレームを物的なものとしてみるリアリティは時代の中での読者が求めるリアリズムの基準の変更と、このマンガがギャグマンガであることを表す。それは、前述のように、今は使われない二次元的なフレームの不確定性を利用した表現であることと、更にそれが1985年現在でもギャグとしてしか成立しえないということからわかろう。そして二つ目に述べたコマをはみ出すキャラとフレームの無いコマについては、この作品世界のなかでの映画的リアリズムの水準の低さを表そう。なぜならば、映画的リアリズムはコマをカメラと捉えることを前提とし成り立つために、カメラのフレームから被写体が飛び出すことが不可能であるように、そのコマの外にキャラがはみ出すことは起こりえないからである。これは『AKIRA』の中で一度もその二つの表現が出てこなかったことからも言えるだろう。つまり、これらの表現が頻出する前半部はギャグマンガとしてのその時代の読者が期待するリアリティをそれに反映させていたが徐々にその期待は変化していったことがここで予想できる。また、コマからキャラがはみ出すことが可能だったことと、フレームがないコマが存在することが可能だったために、コマは多層化し、3−3−2で述べたような作者まで行き着くことができる構造がそこにあった。そのために、作者目線からの言葉を作品の中に投影することが可能となっていたように思う。たとえば、2巻p106(図32)や17巻p35(図33)のような発言である。さて、それを考えるときに一箇所その例外があるように思える。それは40巻p109(図34β)である。そこでは物語後半、つまり完全にギャグマンガではなくなったと思われる巻数のものであるがそこにも作者の発言が書かれているのだ。さて、これはどう考えるか。この場面では登場人物のゴテンとトランクスがフュージョン(合体する技)を練習するシーンである、そして、それの失敗によって太ったりやせたりとキャラクターとしてよりは変形自在なキャラとしてのリアリティがそこでは大きく扱われる(図34α参照)。それによってこのシーンはバトルではなくギャグマンガ寄りの期待がそこにされることが可能となり、それによって作者の発言がはさまれることが可能になっていると考えられよう。さて、最後の一つを例外として、このマンガが、時代の中での移り変わりによるリアリティの基準の変更を行い、更にギャグマンガからバトルマンガへの転換をおこなったことがここからわかった。普通、読みきりのマンガではそのようなことは起こりえない、それはこの二つのマンガのスタイルでは、今まで述べてきたコマ、言葉、絵についての3作品がそれぞれ違う期待の上に成り立っていたように、作品スタイルの間でその期待されるリアリティが違うためである。一つの短い読みきり作品の中でそれらを同居させると、マンガとしては軸が定まらない読めない作品となろう。しかし、この作品はそのようにはなっていない。それは、これが1984年から1995年という11年の長い時間によって徐々にそのスタイルを変えていったためにそれが成り立ったと考えられるだろう。そして、それがジャンプシステムという読者の人気によって作品の行く末、打ち切られるかどうかが決まるジャンプの中でその長い間人気を保ったと言う意味でこれは読者が期待したためにそのようなスタイルの変更が行われたとも言い換えられよう。

 

  Panasonic
MECH= 


図 32『ドラゴンボール』2巻 p106      図 33『ドラゴンボール』17巻 p35

 

Panasonic
MECH=  Panasonic
MECH=


図 34α『ドラゴンボール』40巻 p108、109     図34β p109のコマ抜き出し

 

つながりと各話タイトル

 さて、次にコマの連続による情報の記述を考える。29巻のp181(図35)をみるとわかりやすい。ここでは1コマ目で登場人物の顔のアップで目だけ動かしている。そして次のコマでその見ている先が描かれる。このように、ここの二つのコマは「彼女は誰かの手に持たれた機械を見た」ということを表していることがわかる。そしてその次のコマについても「彼女はドクターゲロに聞いた」「ドクターゲロはそれに答えた」ということを記述していることがわかりやすい。更にその次も「ドクターゲロは説明した」など、コマの繋がりの中、またはコマ単体によってある一つの動作を表していることがわかる。また、人物の描かれていないコマも同様に前後のコマとのつながりからそのコマの意味が容易に推測できる。たとえば、13巻のp88(図36)では塔が描かれているがその前後のコマから場面転換をし、これから「塔での出来事」について記述するということを意味していることがわかる。また、40巻のp139(図37)の2コマ目のように何も描かれていないコマもその前後のコマから「ある程度の時間が経過した」ことを表していることがわかろう。このように5W1Hの情報をコマのつながりによって常にそこに記述し、またそれらの情報はすべて「○○は××で△△した」という一言の文章で表すことが可能である。更に、これらの情報を集合していくことによって一話は構成される。そして、その一話自体ももくじの話タイトルによってほとんど一言に集約されている。たとえば「其之三 悟空・海へ走る」というタイトルであれば悟空が海を走る話なのだろうと漠然とその内容を知ることができる。もちろんこれはタイトルであって内容ではないためにどのような内容であるかはそのコマとコマのつながりからしか見出せないが、事前の情報として今回はこのような話なのだろうという予想は立てることが可能である。更に、コマとコマとの繋がりのレベルでは前述したような効果線もコマのつながりが一言に集約されることをより簡単にしている。つまり、視点を効果線によって誘導しているのだ。それは速度を表す線であろうとそのほかのものを表す線であろうと、背景が線によって上書きされているためにどうしてもその効果線の乗っていない部分が特に注目されるようになるのである。そして、それによってそのつながりの中の主語や述語をよりわかりやすくする。

Panasonic
MECH= Panasonic
MECH=


図 35『ドラゴンボール』29巻 p181     図 36『ドラゴンボール』13巻 p88

 

Panasonic
MECH=


図 37『ドラゴンボール』40巻 p139(2コマ目は中心のコマ)

 

 これまで述べたように、ドラゴンボールでは読者が読み違えないように様々な工夫をそこに持っていることがわかる。そしてそれによって読者は自分からその情報をつかもうとするよりも受動的な態度でもそれらが読めるのである。

 

反復するシーン

 また、14巻p62〜65(図24、図38)を見てもらいたい。このときに、同じシーンが二度繰り返されていることがわかる。前述したようにこの作品が1話1話に区切られ、それが週刊連載によって小出しにされていたことからその理由がわかる。つまり、これらは勢いのあるシ−ンで1話が終わったためにその勢いを維持したまま次の話につなげたかったということであり、それのための助走の役割としてここにもう一度出されているのだろうということだ。そして、それによって、読者がそれまでの流れを理解しやすくするのである。

Panasonic
MECH=  Panasonic
MECH=


図24再掲『ドラゴンボール』14巻p62〜63  図 38『ドラゴンボール』14巻 p64〜65

 

(2)ねじ式(※わかりやすいようすべてのコマに通し番号を振り、ページ数ではなくそのコマの通し番号によって具体的なコマを指し示すこととする。)

 ここでは『ねじ式』のような芸術的と呼ばれるようなマンガについて、読者はどのような期待をしているのかを考える。

 

つながりの文章化

 まず、この作品を『ドラゴンボール』と同じようにコマとコマとの繋がりを文章のつながりとして考えてみる。そうすると早くも2コマ目(図39)で行き詰る。言葉にすることができないのである。それはこの絵は主人公が見たものなのか、それとも主人公が通った場所にあったのか、それともまったく関係ないのかということがまずこのコマの連続の中で発見できないからだ。さらに11コマ目(図40)ではこのコマに居る人物が今までのコマのつながりの中からではどこから現れたのかもわからず、また、背景も真っ白なのでこの人物がこの作品世界内の現実に存在するのかも怪しい。そして、15コマ目(図41)の背景の黒抜きの楽器を持った人物たちもこれは主人公の心情を表しているのかそれともその作品世界内に存在しているのかをここではっきり言うことはできない。このように、この作品の中でのコマとコマとのつながりを文章として考えていくことは非常に難しいことがわかる。つまり、この作品はコマとコマとの意味のつながりのレベルで既に主観の働く余地が多過ぎ、これにおいてそのような分析を行うことは無限大に「開かれ」たものを一つ一つ分析するという不毛なものに近づく。そのために、ここではそのような分析方法は行えないことがわかろう。

Panasonic
MECH=Panasonic
MECH=


図 39『ねじ式』2コマ目            図 40『ねじ式』11コマ目

Panasonic
MECH=


図 41『ねじ式』15コマ目

 

背景の連続性、そして文章の連続性

 文章としてみることができないのであればどうするか。ここでは、このコマとコマとの意味のつながりよりも視覚的なリアリティの三要素に近づいた分析を行っていく必要があろう。つながりの一つとして、話自体の流れを掴むための背景からそれをみつける。背景のつながりとして、その作品の中での三次元的なつながりを考えていく、つまり、劇画のときのようにその作品世界がコマという枠の中に存在していると考える場合の連続性の発見である。具体的には、同一のものをあらわすと思われる一つのシンボル(主人公以外のもの)の発見とそれを共通点とする場面の発見を行う。これは、XというものがあるAコマとBコマは空間的に連続していることを表していると考える方法である。そしてXがあるAコマとBコマ、YのあるBコマCコマというようにしてそのコマの連続性を発見していき、それが途切れるまでを一つのつながりと考える。このように考えた場合、つながりが発見できるのは11コマ目と12コマ目(スーツの男による)、17〜20コマ目(線路)、22〜29コマ目(汽車、お面の子供による)、34コマ目〜51コマ目(おばあさんと金太郎飴による)、57〜〜69コマ目(産婦人科医による)、そして70コマ目と71コマ目(ボートによる)である。しかし、これだけでは十分でない。それは1コマ目から10コマ目まで、確実にこれは連続しているというコマを発見できないことからわかろう。

 次に、言葉のつながりによって、連続性を考える。それは、一つのコマを超えて言葉が文章となっている場合や、せりふとせりふのやりとりとしての連続を見ていくという方法である。これによると、1コマ目〜7コマ目、8コマ目から15コマ目、17〜20コマ目、21コマ目と22コマ目、24コマ目〜26コマ目、27コマ目と28コマ目、29コマ目〜32コマ目、34コマ目〜51コマ目、52コマ目〜55コマ目、56コマ目〜(60コマ目は不明)〜69コマ目が連続していると言えよう。

 最後に、三次元的なつながりではなく同一の二次元的なマンガ表現方法を連続してを使っている箇所を一つのつながっている場面と考えてそれをあげる。わかりやすい例で言えば、ドラゴンボール4巻p25(図42)にて回想シーンが丸みを帯びた角のコマによって区別し、ここは回想シーンとして、現実とはまた別のつながりを表している。このように、コマや背景において二次元的なマンガ表現上の同一性を考えることによって、表現上これらのコマは連続しているということをここではあげていく。これにより、11〜13コマ目(背景が白、人物のみしか描かれない)、18コマ目と19コマ目、31コマ目と32コマ目(主人公が黒抜き)、42コマ目と43コマ目(背景に特殊な模様)、45〜51コマ目(背景なし)、54コマ目と55コマ目(主人公が黒抜き)である。

 さて、ここで得たつながりの情報三つをあわせるとどうなるか。これは以下の図43のようになる。

Panasonic
MECH=


図 42『ドラゴンボール』4巻 p24〜25

 

 

 

 

1

 

2

 

3

 

4

 

5

 

6

 

7

 

8

 

9

 

10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11

 

12

 

13

 

14

 

15

 

16

 

17

 

18

 

19

 

20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

21

 

22

 

23

 

24

 

25

 

26

 

27

 

28

 

29

 

30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

31

 

32

 

33

 

34

 

35

 

36

 

37

 

38

 

39

 

40

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

41

 

42

 

43

 

44

 

45

 

46

 

47

 

48

 

49

 

50

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

51

 

52

 

53

 

54

 

55

 

56

 

57

 

58

 

59

 

60

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

61

 

62

 

63

 

64

 

65

 

66

 

67

 

68

 

69

 

70

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

71

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


図 43 『ねじ式』のコマのつながり(青塗りが3次元的つながり、二重線が言葉からのつながり、黒枠は背景のマンガ表現によるつながり、番号はコマ数)

 

 

 このようにしてこの作品のうちに少なくともつながりを見出せる場所をあげた。つまり、このつながりの部分はそのつながりの中でつながりとして上げられる要素で考えたときに限り、主観に大きく左右されない意味を得ることができると言えよう。たとえば、11コマ目は8〜15コマ目(図44、図45)までのつながりの中で言葉という軸に沿ってそれを考えることによって、はじめてスーツの男との会話がそのコマのつながりの中に連続していることがわかり、更に、このコマを11〜13コマ目の二次元的なマンガ表現の連続からこれは10コマ目以前や14コマ目以降とは違う役割を持ったコマであるとわかるのである。このようにこのコマには会話のつながりの中では前後の整合性を持つが、マンガ表現上ではつながりはわからない。このように、コマとコマとのつながりが二つ以上の意味を持っていることがここでわかるのである。

Panasonic
MECH=


図 44『ねじ式』9〜10コマ目

Panasonic
MECH= 


図 45『ねじ式』11〜16コマ目

 

マンガ表現とその周辺のコマのつながりの不確定性

 さて、これだけではドラゴンボールにも見られる効果線による効果(図24)と変わらないようにも思えよう。何故なら効果線もこのように話の流れの中で使われ、そのある特定のつながり部分だけを効果線によって独立させているとも言えるように思えるからだ。しかし、同じようだと言っても何かが違う。それは何が違うのか。ここで問題となるのは、このときに何故突然、背景が白いのかということだ。ドラゴンボールにおいて効果線は常に、登場人物の視線や動作、気、感情によって使われ、それがどのように使われているのかは効果線が使われる前後のコマのつながりの中から推測することが可能であった。だが、ここでのマンガ表現はどうであろうか。11〜13コマ目で背景が白くなったことはその前後のコマから推測することが難しい。ある特殊なマンガ表現がそこに突然現れることによってその連続の中にありながら、非連続性があるようにも見える特殊な状況が作られているのだ。このマンガ表現の解釈によってこの作品自体を様々に理解することができよう。たとえば、ここから、連続性がありながらも連続していないという、半連続性とでも言える様な、白昼夢のような状況として解釈することが可能である。また、ここで述べたようなことは13コマ目に限らない。この作品の中である特殊なマンガ表現が使われているところはほぼその前後の文脈からはその必然性が確固として言うことができないのである。この効果によって様々な解釈が可能であるため、読者は自分の解釈をその開かれの中から選択する必要がある。

 

ねじ式を作品足らしめるもの

 さて、このようにこの作品は様々な解釈が可能であると述べた、しかし様々な解釈が可能であると言うことはこの作品が何も表さないことも示してはいないか。つまり、ただの支離滅裂な要素の集合体としてそこに存在するだけの、作品と言うにはおこがましいようなものになりはしないか。ねじ式は、もちろんこれまで述べたようにちゃんとしたつながりをそこに発見できるために作品として最低限読まれることが可能なストーリーがそこに存在していると言えよう。しかし、それでもなお解釈の無限の開かれは作品を作品足らしめるには非常に危ういもののように思える。この作品ではその危うさをどのように解消しようとしているのだろうか。それについて、71コマ目(図46)のセリフを見てもらいたい。「そういうわけで このねじを 締めると 僕の左腕は しびれるように なったのです」とある。このセリフによって今までの支離滅裂な展開の一つの理由を発見することが可能だろう。このセリフは今までのことが主人公の語りであったことを意味する。そして、主人公の語りであることをそこで了解してもう一度読むならば、ジャンプ系のマンガでの回想シーンとしてこの作品はすべて読み込めるようになる。そのような場合、ここにあるすべてのマンガ表現は主人公の心理描写と捉えることが可能となろう。それによって、無限の開かれの中に一つの解釈の手助けが生まれる。また、そこからこの作品の中のセリフ回しなどの支離滅裂さについても一つの軸が与えられよう。つまり、この作品世界は作品世界内で現実に起こったものではなく作品世界内の主人公が過去に体験したことを主人公の言葉(回想)によって記述した作品であるということだ。また、作品の中の諸要素のつながりは作品世界内(主人公の回想内)で更に主人公の心情として表されることによって作品世界内の更に内部へともぐりこむ。このような構造によって人間の精神の複雑性のようなものを表すことが可能となり、この作品が文学的であるといわれる理由になっているのではないだろうか。

 

Panasonic
MECH=


図 46『ねじ式』70〜71コマ目



[1] 鳥山明『ドラゴンボール』:7つ集めればどんな願いも叶う玉「ドラゴンボール」を巡る長編冒険マンガ。1984〜1995年連載。2009年『DRAGONBALL EVOLUTION』の題名でハリウッド映画化。

[2] つげ義春『ねじ式』:メメクラゲに腕を咬まれた少年が医者を探すという物語。1968年発表。

[3] 夏目房之介、竹内オサム『マンガ学入門』ミネルヴァ書房 p93

[4] 同上 p87

[5] 伊藤剛『テヅカイズデッド』NTT出版 p219

[6] 同上 p206

[7] 空知英秋『銀魂』:江戸時代末期に天人と呼ばれる異星人が襲来した世界を舞台とするギャグマンガ。2010年1月現在週刊少年ジャンプにて連載中。

[8] うすた京介『ピューと吹く!ジャガー』:独特な格好をした変人ジャガージュン市とギタリスト志望の青年ぴよ彦による不条理ギャグマンガ。2010年1月現在週刊少年ジャンプにて連載中。

 ⇒ 第4章 受容と独自性
Copyright (C) 2013 u All Rights Reserved.