3―4 絵によるリアリティ
ここでは「絵」のリアリティ要素としての期待の地平を考えていく。
3−4−1 分析対象
3−1で述べたように、ここで取り上げる作品は、単に「絵がきれいでリアルである」というだけではいけない。「絵」を考えるためにはその中の要素として「キャラ」も考えなければいけないために、背景としての絵と登場人物としての絵(キャラ)の二つの絵を同時に考えなければならないのである。そして、厄介なのは、「キャラ」と言うものが単に見た目がリアルであると言う意味を超えて読者に期待されている(リアリティ要素として成り立っている)ということである。そのため、「キャラ」が実際の人間に近い形をしているからこそリアリティがあるとは必ずしも言えないのである。ここでは、これらのことを考え、実際の人間とは異なる形の「キャラ」によりリアリティを作り出すことに成功していると思われる作品を取り上げたい。
さて、どの作品を取り上げるか。ここでは『よつばと[1]』というマンガを取り上げたい。この作品は、「自然主義的リアリズム(背景や小道具など絵についていえるもの)で描かれた世界と、まんが・アニメ的リアリズムで描かれるよつば[2]」と書かれ、このときの「まんが・アニメ的リアリズムで描かれる」ということはまさに前述の「実際の人間とは異なる形のキャラ」からくるリアリティと同じであるように、「キャラ」が人間のような形をしているからというものを超えたリアリティがあると言えよう。その意味で、「絵」への期待を考えるためには適切であろうと考えられる。
3−4−2 分析
ここでは、「絵」からのリアリティを「キャラ」と言うことに重視し、「よつばと」から考える。
簡略化された「キャラ」
このマンガで「キャラ」を見ることでまず言える事は、よつば(主人公)に鼻がないことだ。よつばに限らず、子供のキャラの鼻は点で描かれるか無いかのどちらかで、大人のキャラクターも鼻は線だけである。もちろんこれはマンガとしては珍しいことではないが、ここでは「キャラ」からのリアリティを考えるためあえて確認しておきたい。このように「キャラ」は現実をそのまま描くのではなく、省略を行い、かわいらしく描かれることが求められている。
「キャラ」の表情
簡略化されたキャラはどのように感情表現を行っているのか。そもそもマンガでは大げさな感情表現をその「キャラ」絵を崩すことによって描いている。古い例えでは、目が飛び出ることで驚きを表したりである。このマンガ内では、8巻のp146(図19)や6巻p167(図20)など、キャラの目を丸くし、また線にすることにより感情を表現している。しかし、「キャラ」の絵を崩すと言うことは、「キャラ」が人間から離れていくことにならないだろうか。もちろん現実に人が示す感情表現を誇張することによってその表現は成り立っているために人間的であるとは言えよう、しかし、作品世界内が仮に今我々がいる現実と同じだと考えた場合、大幅な誇張は不自然以外のなにものでもない。また、1巻p106(図21)のようにキャラクターの感情が「キャラ」だけでなくその背景でも表現されているような場合はどうだろう。これも現実にはありえない。つまり、これらの表現は「コマ」についてのリアリティで述べたような客観的表現としてのリアリティを薄くさせるように思えるのである。このように、「キャラ」を崩すことの期待と現実的であるべきだという期待がここで対立しているように思え、「キャラ」を崩すというマンガのルールによる期待によって現実的なものへの期待は犠牲にされているように思える。
図 19 『よつばと』8巻p146 図 20 『よつばと』6巻p167
図 21 『よつばと』1巻p106
「キャラ」と背景
しかし、現実的なものへの期待として、客観的な表現は背景の絵には随所に見られる。つまり、キャラには現実的なものではなくマンガのルールとしての期待が大きいため現実的なものへの期待は制限されるが、背景はそれが無いため制限されていないということであろう。そして、その二つが同じコマの中に存在することによって奇妙なことが起こっている。それは6巻p143(図22)にわかりやすいが、明らかに背景とキャラとのタッチが違い、キャラの描かれている紙と背景の描かれている紙を二枚重ねたようなレイヤー構造となっているのである。即ち、背景への期待と「キャラ」への期待が完全に分離されているように思えるのである。しかし、われわれはこの奇妙な現象の中でもそれを普通に読めてしまう。
図 22 『よつばと』6巻p143
奥行きと「キャラ」
3巻p181(図23)を見てもらいたい。ここではキャラが三次元的な丸みを持っていることがその影よりわかる。ここでの花火の光(コマ左上)というものに対する期待は、現実的に考えることによって照らすということであり、それに照らされてよつばの三次元的な形が浮かび上がっている。しかし、前述のように、「キャラ」は簡略化されているものであるため、そこに『AKIRA』でのカメラアングルのときに述べたような三次元構成は必要あるようには思えず、逆にそのリアリティを薄くしてしまうのではないかという危惧がある。つまり、この簡略化された「キャラ」が奥行きを持つことによって、背景の中に溶け込むことができるようになり、そうなった場合、レイヤー構造によって背景と「キャラ」との期待の分離がなくなり、背景と同じ期待で「キャラ」を見て、その期待を裏切ると言うことが起こりうるように感じるのである。そうなってしまえば、そのマンガは読まれなくなる。しかし、これはそうなっていないように思えるのだ。それは何故か、答えは単純である。キャラを人間として見なければいいのだ。即ち、キャラが人間として捉えられることによって、そのリアリズムの矛盾ができてしまうのであって、読者の今までの経験のなかで「キャラとはこういうものだ」という定義が「人間とはこういうものだ」というものと同一でなければ、それは起こらない。即ち、キャラは人間なんだから鼻は鼻である、もし省略していても存在していると考えるのではなく。『ドラゴンボール』にてクリリンが「鼻がない」ということが成り立つように、キャラなんだから人間と違ってもいいのだという了解があるように思えるのだ。そして、人間とは違うキャラをその上から他の要素で固めキャラクターとすることによってはじめて、人間として振舞うことができるのである。即ち、ここでキャラは人間ではないからこそ映画的なリアリズムに支えられた背景のなかでもリアリティを保ちうるのだと言えよう。
これまでから、キャラと背景で述べたような、人間としてのキャラクターを持っているキャラと、ここで述べたキャラとしてそこに存在しているキャラを一つの作品内にて両方存在させることによって、この作品では、キャラの持つ人間的ではない期待をうまく隠し、キャラクターとして人間を描いているように思える。
図 23 『よつばと』3巻p181