3―3 言葉によるリアリティ
ここでは「言葉」のリアリティ要素としての期待の地平を考えていく。
3−3−1 分析対象
『テヅカイズデッド』に、少女漫画は劇画とほぼ同時に出現したとある。その理由は「地底国の怪人」の年代においてキャラの持つリアリティが隠蔽されたために、他の二要素におけるリアリティが拡大していったためである。コマ構造→劇画へ、言葉→少女漫画へ。そのために言葉によるリアリティを考える場合、言葉に期待されるものを考える場合は少女漫画を参照することが的確であろう。それをふまえここでは、24年組と呼ばれる現在の少女マンガを構成する様々な技術とテーマを導入した集団のなかでも特に代表的である萩尾望都、そして彼女の代表作である『ポーの一族[1]』より言葉における期待を考えたい。
また、この分析を行う私は男である。この少女マンガというジャンルは主に「女性」に向けて開かれた作品であるため、私がどこまで理解できるかはわからない。「開かれ」の外から、作品を理解することはできないためである。そのため、ここでは既に理解できた範囲の中でこのマンガを捉えて分析を行う。それは、理解できたということはその開かれの範囲の中に居ると考えられるため妥当だろう。また、少女マンガに限らず、開かれの範囲の外から作品をみることになってしまうことは多々あると思われる。それは、ある有名作品を読んでいることを前提として作品が作られている場合などに、それを読んでいない人が作品すべてを理解できないということである。ここでの少女マンガの女性への開かれの範囲も大なり小なりそれと同じものだと捉えたい。また、ここでは、特別その言葉の内容を扱うのではなく、視覚的に捉えられるマンガ要素の中での「言葉」として捉えるという意味でも問題は小さいものだと考える。
3−3−2 分析
ここでは『ポーの一族』から言葉に期待されているものを考える。
言葉と時間
まず、第一話「すきとおった銀の髪」を見る。そこでは、ふきだしなどで誰かが発していることが明確になっているもの以外の言葉はチャールズの語りとなっている。そして、これによってここで記述されるものはチャールズが体験した過去だと言うことがわかる。このとき、過去の記述であることを読者が期待するものとしてその言葉は使われているのである。また、1巻p68(図13)にある右下に日付の書いてあるコマを見てもらいたい。ここでは、その日付によって、コマが写真の役割を表し、その年の話をしていると言うことがわかる。また、このときに、コマ枠が無いことも、これは単純に作品世界を記述しているのではなく、特別な事柄を記述していることがわかりやすい。このように、前者では、語ることばによって、また後者では日付によって、言葉は作品世界内の時間を記述し、「言葉」が時間を決めることができることがわかる。
図 13 『ポーの一族』 1巻p68
多層コマ構成と言葉
次に、1巻p476(図14)を考える。これは、いくつかのコマの重なりによってできている非常に複雑なコマ構成である。これは、中央でコマを無視して描かれている少年エドガーの回想である、そして、そのほかの絵もコマ枠をところどころ無視している。(これは前述の劇画とはまったく違う方法で描かれていることがわかるだろう。何故なら劇画の描き方では時間をコマの構成で表すため、また三次元的形状をその作品世界の中に作り出すために、コマ枠を絵がはみ出すと言うことはそのリアリティを根本から崩しかねないからである。)言葉を無視して、絵だけを追ったのでははっきり言って意味がわからない。しかし、逆に、絵を無視して言葉だけ追うとどうなるかというと、その場合は理解可能なのである。ここからここにおける絵は補助的な役割しか負わず、言葉によって話の流れを作り出していることがわかるだろう。まず言葉ありきで作品世界を構成しているのである。そして、コマ自体もその言葉に合わせるように展開し、言葉に合わせるとコマが重なってしまう場合もそのまま重なるように展開している。このように、言葉がまずあって、その上にコマと絵を置いているということがわかる。
図 14 『ポーの一族』 1巻p476
詩的表現
1巻のp196(図15)や2巻のp129(図16)などこの作品は詩的な表現が目立つ。このとき殆どの場合、1ページに1コマとなっている。そして、そこではふきだしがつかわれず、マザーグースの引用などの詩がただそこに並べられているだけなのである。また、その絵はその詩の表現と登場人物を掛け合わせたような、まず作品世界内の現実ではないものである。このようにして作られた表現は作品世界内の現実と現実の間に不意に現れ、キャラクターたちの未来におこることや起こってしまった過去をあらわすのである。さて、ここで注意したいのは、それらの文章と絵の関係である。ここでも絵は詩の情報を作品世界に対応付ける役割をしているだけで大きな意味をもっていない、その代わり、言葉がすべての意味を持っているである。このように、詩的表現にてついても言葉が最重要に作られていることがわかろう。
図 15 『ポーの一族』 1巻p196 図 16 『ポーの一族』 2巻p129
作者の言葉、そして多層コマ構成再び
これまでのことを踏まえ、次に2巻p13(図17)、p33(図18)を見たい。ここではもはや作品世界の枠を超えて、作品の途中だと言うのに作者のコメントが挿入されている。そして、そのシーンでの読者の「何故?」に答えている。これはどういうことか。このようなことを劇画で行えば、漫画家が無能であるというただ一言で一蹴できよう(これは、映画でわかりにくいシーンにテロップで「これは○○で××なんだから△△なんだ」と説明をいれることとおなじである)。しかし、ここではそのようなことは起こらない、そして「読者が寛容だから」ということも答えにならない。このようなことが起こりうるのは、前述の多層コマ構造について関係しているように感じる。コマ構成を多層化することを言葉がまず先にあるからとして説明した。しかし、それ以外にも、コマを多層化することによるもの、またはコマを多層化するために必要な要素があるだろう。それは、前面のコマがその一つ後ろのコマの下位に位置すると言うことである。1巻p476(図14)について言えば、コマ枠を持たないエドガーのコマが一番後ろに位置し、その前面にあるコマすべてを支配している。即ち、前面のコマはエドガーの語りであるという意味で、である。このことから考えて、このマンガの一番後ろにあるものは何かと言うと、あるときはそのページの紙であって、更にその後ろでは作品の世界を超えて作者までたどり着く。つまり、すべてを語っているのは作者であるというところまで少女マンガでは遡る事ができるのである。このように、多層コマ構造が、作者が後ろに居るという期待を作り出し、また読者はそれを期待していることがわかる。
図 17 『ポーの一族』 2巻p13 図 18 『ポーの一族』 2巻p33