3―2 コマによるリアリティ
ここでは「コマ」のリアリティ要素としての期待の地平を考えていく。
3−2−1 コマとは何か
今まで、「コマ」と言う言葉を使ってきたが、コマとはどのようなものかをもう一度ここで考える。「コマ」はマンガにおいて「絵」と「絵」を区切る枠である。そして、そのときに問われるのは、コマを無地の紙の上のどこに置くかということと、どのようにして「絵」を区切るかという二つであろう。これを『テヅカイズデッド』では「コマ構成」と「コマ展開」と呼ぶ。ここでもそれに倣い「コマ構成」「コマ展開」と呼ぶことにしたい。
3−2−2 分析対象
「コマ」は絵を区切るという意味で、映画におけるカメラワークやショットの概念と対応して考えることが可能であろう。そのように、「コマ」によるリアリティは、映画的なリアリズムの導入と密接にかかわっていると考える。そして、そのリアリズムを導入したとされる「劇画」と言うジャンルをここで取り上げることは妥当であろう。
さて、ここで「劇画」についての具体的作品として『AKIRA[1]』を取り上げたい。それは何故かというと、「「映画的」リアリズムの導入は、大友克洋の登場と、その影響の広がりにより、一応の完了を見る」[2]と述べられているように、その作者の大友克洋はマンガへの映画的リアリズムを導入して、「コマ」からのリアリティを強化してきた人物だと言えるからである。その意味で、彼の代表作である『AKIRA』をここで分析することにより、「コマ」による期待の地平をうかがい知ることができるだろう。
3−2−3 分析
ここでは、「コマ」におけるリアリティ要素を『AKIRA』から考える。
ページの中でのコマの読まれ方
第一に、ほぼすべてのコマが1ページの中で右から左、上から下へと順番に読むように作られていることに注目したい。これは、ここで取り上げるまでも無くすべての読者がすべてのマンガについて期待していると思われるかもしれない。しかし、ここではこの読まれ方が一つの重要な意味を持っているように思えるのだ。1から6巻までの中で、このルールに当てはまらないものは4巻のp111(図3)と6巻のp344からp347(図4、図5)のたった二箇所であり、その二つに共通していることは両者とも、キャラクターがその意識の中へともぐりこんでいて現実(作品の中での現実)の世界の中を記述しているわけではないということだろう。しかし、その意識の中でも、現実に起こったことを回想する場合はルールに従って読むことができた。意識の中でも時系列的に思い起こしていることはルールに従って記述されているのである。これは即ち、そのキャラクターの中での主観的な時間であろうと作品世界内での客観的な時間であろうと、時間を記述するためにこのように一本道のコマ構成を行っていると考えられる。そして、読者は時間の記述をそのような一本道で読むように期待するのである。これは、今生きている時間は一般的に一直線だと捉えられるものだから直感的にもわかりやすいことのように思える。
図 3 『AKIRA』4巻p111
図 4『AKIRA』6巻p334〜335
図 5『AKIRA』6巻p336〜337
動きを捉えるカメラ
次に、1巻p292(図6)に描かれているような背景の効果線について考える。この表現はこの後も多く使われており、何かを記述するために都合が良いもので読者にも期待されていたといえよう。さて、これは何をあらわしているのかと言うと、ここに描かれているキャラクターが速いスピードで動いていることをあらわしていると言える。これは、カメラで写真を撮るときに、シャッタースピードが遅いと、速く動くものが線に見えることとおなじであろう。即ち、カメラがその焦点が合っているものを追っているためにそれ以外のものが線となっていると考えられるのである。また、1巻p327(図7)での金田が拳銃を発砲するシーン、3巻p236(図8)のアキラが覚醒するシーンではそれぞれ、キャラがブレている。これも先の効果線と同じように、カメラの例で考えるとわかりやすい。つまり、振動の瞬間をカメラが捉えたためにブレているのだと。このように、これらのことはカメラで例えられるのである。ここから、読者がコマ展開をカメラのようであるべきだと期待していることをうかがい知れる。
図 6『AKIRA』1巻p292 図 7『AKIRA』1巻p327
図 8 『AKIRA』3巻p236
カメラアングルと立体
読者がカメラのようにコマを考え、そのような表現を期待しているとわかった。ここではそれに関して、更にもう一つの例を挙げたい。4巻p189(図9)、19番(キャラクター名)が語るシーンである。ここでは語っているキャラクターをただひたすらいろいろな角度から描く。これはまさにカメラのアングルを切り替えているようである。そして、これによって、二次元に書いてあるものが三次元的な形状を持っていることがわかる。当たり前のように思えるかもしれないが、二次元に描かれるマンガに置いて必ずしも必要ではないのである、これは『天才バカボン』[3]のキャラを思い浮かべればわかりやすいだろう。つまり、カメラアングルの変更が可能であるということは、そこにあるものが三次元的な奥行きを持っているものとして描かれているということをあらわすのである。また、これはその逆もまた然りだろう。ここで言いたいのは、カメラとコマを同じようなものと扱うためには、常に三次元的な形状を想定して、絵を描く必要があるということである。また、このマンガの中で唯一二次元的にキャラを描いたコマがある、それは6巻p375(図10)にて、金田が超能力によって引っ張られる場面である。この場合も、演出上そのような表現が必要であったという意味を超えないだろう。
また、カメラのフレームと言う意味で、コマの形状もここで共に考えたい。ほぼすべてのコマが長方形をしていて、それの例外となるのはここのはじめで述べた時間的連続の中に無い二箇所だけであった。コマもカメラのフレームが常に長方形であることに関係し、長方形のコマの連続のほうが、読者が期待しやすいものだからと考えられる。そして、この例外が意識の内側の記述であり具体化されていないもので、カメラで捉えられない類のものということからも、カメラで記述可能なものはすべてカメラに近いコマ展開によって読者の期待にこたえているのである。
図 9 『AKIRA』4巻p189 図 10 『AKIRA』 6巻p375
背景とキャラの同化
「コマ」から少し離れてしまうかもしれないが、「絵」特に絵のタッチについて触れたい。普通マンガで、キャラはGペンという強弱のつけやすいペンで描き、背景は強弱がつきにくく常に同じ太さでかける丸ペンを使う。それは、キャラに感情や動きを乗せやすいように、背景はできるだけ均質なものにという意味で使われているだろう。しかし、1巻p331(図11)などを見てわかるように、ここではすべてを同じ太さで描いている。背景もキャラもすべてが同じ線で描かれているのである。これが何を表しているのかと言うと、すべてを客観的に描いているということだろう。これは、コマがカメラのように扱われていることに関係していると思われる。つまり、カメラによる客観的視点によりこのような「絵」になっているということである。そして、このマンガの最後、6巻のp432(図12)では金田たちが背景の方向にバイクを走らせ、その背景に溶け込んでいる。きわめて個人的で主観的な考えではあるが、これは、金田たちの未来を読者たちがどのように考えようが既にカメラからは離れて作品の中では記述できなくなったということを表してはいないか。作品が作者から離れて作品一個として独立し、世界を記述し始めたと言うことではないだろうか。カメラの導入によって、作品世界は三次元的な空間をつくり、そして、コマ展開によって時間を与えられ、最後にすべてを客観化して描くことにより、その作品を独立させる。そのため、このときに空間的な解釈は必ず一つしか与えられない。想像の予知があるのは各々の登場人物の思考とその世界の背景などの抽象的な範囲に留まるだろう。このように、カメラによって「コマ」はそれによるリアリティを強化し、読者に期待される作品空間を作ったのである。
図 11『AKIRA』1巻p331
図 12 『AKIRA』 6巻p432